ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「フィリピン」著:井出穣治

ドゥアルテ大統領で悪目立ちをしてしまった感はあるものの
しかし、どのような道行を経てそこに来たか知らない人は多いだろう。

この本はASEANの中での差異も取り上げながら、
簡潔にスペイン植民地時代から歴史も抑えてあり、
概要をとらえるのにとてもよくまとめられた本だ。

名目GDPは3000億ドル弱でASEANでもトップ集団ではないが
人口は1億を超えて2番手、さらに平均年齢25才という人口動態の特徴がある。
働き盛りがこれからバンバン増えていくという爆発力を秘めているわけだ。

今、日本とフィリピンの関係は悪くはないと思われるが
第二次世界大戦時には激戦のあった場所も多くあって、
日本への感情は穏やかでない時期もあった。

(以前読んだマッカーサーの回顧録でも
互いに大きな被害が出た戦いであったことがよくわかる。)

それがどのようにして、今フラットなところまでこれたか
改めて見ておくことは価値のあることかとも思う。

多数決原理がうまく機能するためには、国の大きな方向性などの根幹部分について、大半の国民の間である種の暗黙の合意が成立していることが望ましい。そうでなければ、対局の判断のたびに国民の分断が引き起こされる危険性が増す。フィリピンの場合は、半ば固定化された格差の存在により、この暗黙の合意の形成が必ずしも容易ではない。(p.159)

「現代美術コレクター」著:高橋龍太郎

なんか、この人ナチュラルにマウンティングしてきて厄介なんですけど。

ただ、マーケットとして成熟を極めていなくても
多様な広がり方をしていて、何がどう動いているのか
なかなか見えてこない現代日本アートの切り口として
筆者が提示しているものには説得力がある。

やはり身銭切ってると違うね。

文章は鼻につきますが、この本の見所は新書サイズながら
カラーで作品を多数紹介しているところです。

っていうか、会田誠が想像以上にインテリな作品の作りで驚いた。
おにぎりがうんこの上に座ってるやつも、地味に半跏思惟像だったしなぁ。

「ビッグデータと人工知能」著:西垣 通

この人はITなどという言葉で呼ばれる前から
この業界にいる人ですが、正直、僕には全然合わない。

AIの知性というものに限界があるのだから、
万能であるかのように思ってはいけない、
という主張それ自体は受け入れましょう。

というよりも、それはむしろ当たり前なんです。
ただ、その主張をする時に
万能AIという夢想が一神教的なものに通じているとも述べるのは
あまりに粗雑な議論です。

少なくともその夢想がヨーロッパから来たという証はなく
同時発生的に同じような概念が自生するという
可能性をほとんど顧みていない。
また、これは議論の中核ではなくて、単に言ってみた程度の話であり
要は万能ではないという主張を補強する為の小話です。

まぁ、こういうのは手癖でやってしまって自覚はないんでしょうが。

人間と同じでないから人間と同じ知性にならないのは当たり前です。
どこまで成長してもそうでしょう。
それでもなお、シンギュラリティは起こりうると私は考えています。

何故なら、人間とは違う形の知性が存在しうるからです。

優劣とは関係なく、理解が不可能であっても
意思を持っているとみなすことが、
それが人間の能力のひとつなのです。

ヒューマニズムにとらわれるのでなく、
絶えず人間という概念を拡張しようと試みることの一端に
シンギュラリティの夢想は揺らめいているのです。
(ここはとても危うい言い回しですが)

まぁ、情報処理の発展史については概説を抑えています。

下手な切り分けをおこなうと、われわれはコンピュータの作動のリズムに合わせて社会メガマシンの要素と化し、狂気のように振り回されることになってしまう。そうならないためには、今一度、生物と機械の相違を確認しておく必要がある。いったい、「人間にしかできない仕事」とは何なのか?(p.200-201)

人間にしかできない仕事とは信じること、決断すること。
最初、喜ぶことと書いたが、感情は仕事ではない。感情は仕事ではない。

「アホウドリを追った日本人」著:平岡昭利

副題には一獲千金の夢と南洋進出とある。

アホウドリが儲かるとは、どういうことか。
なんでもアホウドリは警戒心が弱いので特別な道具が無くても
ひたすら撲殺で捕まえられるらしく、それによって羽毛を輸出していたらしい。

明治の初頭から羽毛の輸出はそれなりの規模もあった。
そうした背景の中海洋進出をしていった実業家たちと、
それらに振り回される政府、そしてこき使われる労働者たちの
三者三様のあり方が見ものである。

それにしても一人1日100羽を捕まえたという数字は
仮に10時間くらい働いたとして1時間10羽、
ほぼ流れ作業のように捕まえてるんだろう。
心の平衡が保てる気がしないね。

逆方向から来たアメリカとのバッティングなど
今もくすぶっている領有権のさや当てもこの時にすでに起きている。

明治期の1つの側面を見せてくれる興味深い本に仕上がっていると思う。

小さな無人島のプラタス島(東沙島)が、労働者がひしめきあう西澤島へと変貌し、カツオドリが飛び交う風景が描かれた私製紙幣が流通する、単一企業島「西澤王国」がここに形成されたのである。(p.168)

帝愛グループのペリカを連想するじゃないか。

「シュメル神話の世界」著:岡田明子、小林登志子

シュメル神話についての予備知識はまったくないが
おとぎ話の詰め合わせとしてまずは読ませてもらえる。

ギルガメシュと言えばビッグブリッジの死闘
怪しげな深夜番組かと思っていましたが、ここで出てくる
英雄の名前だったのですね。

半神半人の英雄は神話の世界ではありふれていて
王権の正統性の源泉をこうしたところに
持たせることができるので、ギルガメシュもそうした英雄の一人のようです。

ギルガメシュの冒険の話も面白いのですが、
個人的にはイナンナが戦いと愛と豊作の女神とされつつも、都市に着く神である
というのが一番のふむふむポイントですね。
というのも神は理念や現象に結びつくことが多いのですが、
それは不変であり普遍であるからです。

神が滅びてしまうかもしれない都市につく、その帰結としての物語も
ちゃんと用意されています。
都市が破壊されて異民族に占領されて嘆くイナンナに
「神々が合意して決めたのだから、その国を捨てなさい」と諭すのです。
そして、また別の王権の都市として復興するだろうと。

ここには政治とは別にそこに暮らす営み自体は
なくならないという諸行無常な都市住民の信仰心が見えるようです。

他にも黄泉の世界への冒険などお約束な物語も含めて
色々詰め合わせで、お得感のある本に仕上がってます。
(しかし、これもまたバチっとした理論はないのよね。
ケレーニイあたりとか読まなかんかね)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)

エンキ神は女神に(引用者注:イナンナ)「喜ばしい声で語る女性らしさ。優美な衣装と女性の魅力。女性らしい話術」を授け、さらに「戦場では卜占によって吉兆をもたらし、また凶兆をも伝えさせよう。真っ直ぐな糸をこんがらかせ、こんがらかった糸を真っ直ぐにするのだ。滅亡させずともよいものを滅亡させ、創造せずともよいものを創造させ、哀歌用のシェム太鼓から覆いを外させよう。乙女イナンナには聖歌用のティギ太鼓を家にしまわせよう」と約束した。(p.94)

この対句的な表現や、列挙は神話によく見られる表現手法だけれど、
これは言葉の意味合いを「対句である」や「同クラスである」と言った
統語法的な制約から字義をより正確にしていこうとする作用もあるように思う。
ただ、結果あらゆるものの女神になってしまいそうだが。

神話とか昔話の多くは「天地の分かれしとき」とか「むかしむかし」のように、漠とした表現でも「いつ」のことから話がはじまる作品が多い。ところが、『エンリル神とニンリル神』はそうではない。
「都市があった」(シュメル語で「ウル・ナナム』)とはじまる。(p.142)

この歴然たるシティボーイとしての自覚がすごい。
4000年前、最古の文明ではありますが、
文明とはこの人の集積によって物語が始まったのだと言うのは
かえって徹底したリアリズムのように感じます。

最初に言葉があっても書き留められなければ、かき消えてしまう。
その意味で言葉の前に都市があった。

「ボン書店の幻」著:内堀 弘

とある詩の出版社として短い間に印象を残した個人の肖像です。
著者が古書店主でもあり、装丁や書誌情報の流れは
網羅的でツボを押さえており、図版も充実していて
それを眺めるだけでも楽しい。

ただし、後書きがズルすぎる。

表には出なかった人だから直接に聞き書きをするわけではない。
各種出版物の足跡や、交友のあったであろう人への取材、
他の同人誌への寄稿や出身学校へのアプローチなど
著者の取材は熱意を持って、近づこうとしていく。

けれど、1930年代に活動していた小出版社の
一人事業主なんて足取りが掴めなくても当然である。
結局生まれなどもはっきりしないまま、
おそらく最後の住まいになったであろうところを訪れて終わる。
これだけでも十分に力作なんですけれど、ね。

冒頭に申し上げた通り、後書きがズルすぎるのであります。
初読のときはうっかり後書きから読まないようにしていただきたい。

それにしても日中戦争も始まっている中で、
詩人は詩をこねくりまわしていたのだという事実。
別に希望を見出すようなことではなくて、
そうするしかできない人たちはやはり、そうしているのだな、と思う。

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)

『ウルトラ・ニッポン』の同人消息にも鳥羽はふんわりしたオカッパ頭で女にもよくもてると紹介されている。もちろん、陰鬱なオカッパ頭もいていいのだが、ここでのイメージはとても軽やかだ。(P.56)

プロデューサーたるもの軽薄でなくてはならない。
そういう気がする。

「神の民俗誌」著:宮田 登

これは本書の後書きにも書かれているが、
いまだまとまり切ってないまま研究ノートを提示されたような本だ。

とは言っても、新書ならそういうことがむしろ挑戦として許されるのだから
向いてる方向さえ意識できていれば問題はなかろう。

そして、この本はケガレと血/出産の関係性、
ハレとケ、ケガレ、この関係性の揺らぎを見つめようとしている。

まず、ケがあり、ケガレという
危険な状態を経てハレによってケに戻す。
そんなサイクルが示唆されている(p.97)

そうであるならば、ハレとケは対立概念ではなくて、
ケとケガレの二択の状態説明があってそこに介入する要素としてのハレということになるし、
サイクルとしてハレが定期的に用意されるのはケガレが
遠ざけたいが避けられない出来事であることを示しているだろう。

女性蔑視に結びついたと批難されることの多いケガレの概念だが
少なくとも始まりは差別のために編み出されたのではないと思う。

気は生命を持続させるエネルギーのようなものだろう。その気がとまったり、絶えたりすることも、「穢れ」だった。そしてこれは死穢に代表されるものであり、不浄だとか、汚らしいという感覚はそこにはないのである。(p.99)

(大事なのは差別のために考えられた訳でないものが、
差別につながることがあるということを直視するほうだろう。
しかしこれはこの本から離れすぎている。)

この後、山の民と平地の民の交流からどのような相互作用があったかなどの
記述もなかなかに興味深い。
それらをキャッチボールする中で女性の立ち位置が
不自由なところに押し込められているようにも見えるが、
さて、その辺は後に続く研究家もそのうち出るかな。

研究としてのまとまりは弱いけれど
伝承と人々の風俗にしっかり寄り添う姿勢は最後まで貫けていると思います。

神の民俗誌 (岩波新書)

神の民俗誌 (岩波新書)

ところで、誰でも知っていることだが、夫がごく親しい友人仲間同志の会話の中で、自分の妻を「山の神」とよぶ場合がある。とくに悪意をもっていうわけではないが、何となく軽んじているようでもある。愛称とでもいってよいが、さりとて妻の前で、「山の神」とよびかけることはない。男同志の会話の中で妻を呼び捨てにするのである。(p.52)

そう言えば小さい頃に一度だけ耳にしたことがあることを思い出した。
しかし、今「山の神」など生きていないだろう。生きていたら
駅伝選手のことをこう呼んだりはしないからだ。

ネット上に墓標を建てたくてここに引用する。