「安いニッポン」著:中藤玲
安いニッポンというのは、
それ自体の価値判断の是非は別として、どうも事実のようである。
100円ショップのダイソーを例に挙げてあるのだが
これが衝撃的で、ほとんどの国で1.5倍以上の値付けになっている。
アメリカでは160円、タイなら210円、フィリピンは190円。
もちろん、為替の変動もあるにせよ、日本が最安値なのは間違いない。
これらが成り立っているのは、アメリカ以外の場所でも購買力が高まっているからできる、
また、人件費も上がってきているから、あげる方向になるということ。
日本はこの2つの条件がともに逆のベクトルに向いているということだ。
なんていうことだ、没落だ。と、まぁ頭を抱えたくもなるけれど、
ヨーロッパを買い漁ってきた我々日本人が今更慌てることなのかは
ちょっと疑問があると思っている。
人件費の低迷の中には労働形態や、人口構造の変動に伴う
一人当たり賃金の低下が示されている。
人口ボーナス期から、オーナス期へ、というのは日本の基本的な方向性で
これは望むと望まざるに関わらず受け入れなくてはいけない前提だろう。
平均賃金は下がっても、成長力を維持していこうと思うなら、
メリハリの効いた賃金形態ということになるから、
その場合セーフティネットと紙一重の多数と少数のエリート、
それにもっと少数の資本家という形になる。
ただ、これに関して間接的に税制などで支援することはできても
なかなか簡単な話ではない。
ものに見合ったお金を払ってよね、
とか言われても先立つものがありゃしません、と返すような感じである。
ただ、現状認識としてはよく見ておくべきものが書いてあると思う。
海外拠点から来日した外国人の同僚を連れてニセコに旅行した。その時、居酒屋のラーメンが3000円だったことを覚えている。(中略)だが、安い日本に慣れている日本人にとっては高いけれど、その価格は世界標準なのだとも言える。(p161-162)
世界のスノーリゾートと比べて安い、ということで外資が流れ込んでそこだけ世界基準の価格になる現象。観光地価格というものを超えてますね。それをうまく地域に還元できるか、日本に還元できるか。
日本には270社以上の製作会社があるとされるが、帝国データバンクによると、赤字のアニメ制作会社の割合は2018年に3割を超えた。過去10年で最高で、倒産や解散も過去最多だった。(p.182)
アニメ業界は盛り上がっても制作会社の売上がさほど上がらず厳しい状況にあるという話。
請負を作りながらピラミッド型の生産形態を作っていく過程での下流に制作会社がいるということでもある。
この場合、しかし、適正価格の交渉は制作会社が主体にならざるを得ないが、
問題があるとしてもどう解決するかが難しいところだ。
とはいえ、この構造は日本に多く見られると思うので、研究者各位が取り組まれることが望まれる。
「ことばは国家を超える」著:田中克彦
膠着語を愛してるんだとかいう詩人が身近にいるので
なるほどね、とか言いながらも「膠着語とはなんぞや」というままに来ていたので手に取った本。
言語はいくつかのグループ分けができて、
そのグループの一つに膠着語があり、日本語はそれに含まれる。
日本語は英語と比べて違う部分が多く、
またヨーロッパの言語はそれらが仲間のようであるから、
何か日本語は孤立した言語のような気がしてしまうが、
日本語も別種のグループの一員であると位置付けられるのは
意識しなかった部分でありとても面白い。
(仲間がいるというのは心強いですね)
それによると、朝鮮語群、モンゴル語群などのアルタイ語、
ハンガリー語やフィンランド語などのウラル語のなど非常に広い
(だが人口密度の希薄な)エリアにまたがっているようだ。
本書はウラル・アルタイ語を中心にしながら
言語学の様々なトピックを興の趣くままに語っていくものだ。
初学者としても読みやすいのだが、しかし、この著者はどうも愚痴が多いような気がする。
膠着語は助詞などがぺったりくっつくから膠着らしいが、
彼は怨嗟が膠着してしまっておるので、読むときにはご注意を。
居酒屋で話を聞いてるくらいだと思うとちょうどいいかもしれない。
クマとあれだけなじみの深いロシア語に、元来あったはずのクマを表す単語が実証されてない(p.78)
クマを表すのは「メドヴェーチ」という単語があるが
「メド:蜂蜜」「ヴェーチ:食うやつ」ということで
直接に名指しているものではない、と。
脅威や、おそれの対象として直接名指すのが避けられたのではないか、というのは
推論以上にはなり得ないけれど、面白い話だ。
ロシア革命に反対し、抵抗したために、迫害されたソ連邦のユダヤ人、タタール人は満州国に逃亡し、あるものは満州国をソ連邦への反撃のための拠点と考えるグループさえあった。少数民族、あるいは抑圧され排除された少数派にとっては、満州国は、いわば駆け込み寺の役割になったのである。そしてかれらは、日本の軍部に積極的に接触してツラン主義を宣伝したのである。(p.215)
まさかこんなところで近代史を読むと思わなかったが、
これは僕が不勉強なだけで、ナショナリズムと言語は二人三脚のようなものだったはずであるから
忘れてはいけない側面なのだろう。
だから、満州国が良かったなんてことは特に思わないが
歴史の陰影を言語の繋がりは映し取っているものだと思った。
「共に、前へ、羽生結弦」著:日本テレビ「news every.」取材班
なかなか、本を読む気力が足りなかったので軽めの本を。
とはいえ、10年間にわたっての継続取材というのは
それぞれの深掘りがなかったとしても十分に意義あるものだし、
年月の中に陰影は現れるものだと思う。
フィギュアスケーターとしてとても優秀な選手だけれども
それ以上の意味を背負わされてしまったし、
また本人も積極的にそれを引き受けた。
これは甘美な共犯関係であるし、危うさを感じるところはないでもないけれど
個別の人間関係に彼はそれぞれの時点で立ち返っていたようで僕は少し安心した。
テレビだけで見ていると、スケートリンクだけで見ていると分からない彼の記録は
震災そのものを記憶するよすがとなるだろう。
仙台の内陸部で避難生活を送った羽生は、津波の被害は免れていた。後にテレビのニュースや仙台空港への道中で見た津波の被害は、想像を絶するものだった。その場所に行って、自分にできることはあるのだろうか。(p.91)
そこに足を踏み入れることを罪悪感としてここでは表現されている。同じ被災者であったとしても、被害の程度が違う。あるいは、自分はスケーターとしての活動を続けている。そこに引け目や恐れがあるのはごく自然なことだろう。
ただ、番組などの企画もあるだろうけれど、そこに入っていって恐れは使命感に変わっていったようだ。
前を向き続けることが、誰かの力に与えることになる。
それが彼の4回転半への挑戦なんだろう。
『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』著:吉田伸夫
時間の話はSFっぽい観念も含めて
気になってしまう。
標高差が時間の進み方に与える影響を調べた実験から始まって
「タイムパラドクス」「時間はなぜ流れる(ように感じる)のか」など
ワクワクする小見出しが並ぶ。
とはいえ、中身はそれなりに手ごわい感じではあるんですが、正直
なかなかきっちりついていくのは難しかったです。
時間が位置と比べて特権的なものではない、というところだけわかっておけば
一般人としては十分でしょうか。
逆に、詳しく知りたい人向けの短めのコラムも充実していて
だいぶ欲張りな新書になってると思います。
未来は決定されているのか、など
SFの設定にこだわりを持ちたい人はこのあたりのことは
目を通していてもいいかもしれないですね。
議論になっているところもそのまま提出されていることが多くて
探求心の強い方に応えてくれる内容ではないでしょうか。
時々ロマンティックな言い回しも出てきて、
そういうところもよいですね。
相対性原理を認めるならば、「現在」だけがリアルなのではなく、「過去」も「未来」も同じようにリアルだと考えざるを得ない。「現在」という物理的に特別な瞬間など、もともと存在しないのである。(p.76)
この後、「持続的に存在する」という用法が批判されているときに、ベルクソンを思い出すけれども、彼は意識について持続を用いたのであって、物質が持続しているわけではないので、彼の主張は維持できそう。
そして、実際、本書の時間の流れも意識にかかわってくる。
人間にとって日常的な大きさとは、空間が1メートル程度なのに対して、時間は1秒程度である。人間の時間のスケールは、物理的に自然な単位の数億倍である。
日常的に使われる時間の単位が空間に比べて桁外れに長いのは、それだけ脳の働きがゆっくりしていることを意味する。(p.208)
光が自然現象の基本だとしたら、という話ではあるけれど、
光が速いというよりも脳が遅い、というのも面白い。
『新年の挨拶』著:大江健三郎
これはエッセイではあるのだが、
よくある主観カメラ的な世界を映したものではない。
もちろん、ごく私的なことからはじめられているのだが、
その発話する私の届けたい相手、反響をうかがいたい相手が
これらのそれぞれの断章の中に織り込まれている。
大江健三郎が戦後派であることは
これらの不透明な他者の存在が確信させてくれる。
穏やかで何かみずみずしさを感じる本だった。
僕は、傷ついている父親を見て深い印象を受けたし、かつ早く父を失ってしまったために、うまく大人になりきれていないところがあるように思うのです。端的に、僕は誰に対しても、権威ある強い者のやり方で命令することができない。サルトルが、自分は笑いながらでしか命令することができないといっている、あれです。(p.88)
子としての自分を振り返りながら、この後、父としての自分を振り返る。ある種の不能としてとらえているようなところがあるが、いくらかの悲しみもありつつも、これでいいとも思っているような具合だった。
強くあることは望ましいわけでもなく、そうできるというのでもなければ、
そのうえで、幸福を見つければいい。
『ヒンドゥー教10講』著:赤松明彦
ヒンドゥー教はインドの宗教だということは知っていても
それ以上のことはあまりよく分からない。
この本を読んでみてそれが分かるかというと
さらに混迷を深めてしまう。
何故なら系統だった教義であるよりも先に民衆の中にあった伝承や習慣が
イスラムなど他の宗教が入ってきたことによって
はじめてそれと意識されたような成り立ちだからだ。
これは日本の神道と似たような立ち位置でもある。
そう思うと、神道に何かの傾向性はあっても
教義とは、というとよく分からないのだからヒンドゥー教が掴みづらいのも納得である。
本書では歴史的な発展を踏まえながら描かれており、
その複雑な成り立ちをできるだけそのまま伝えようとしていると思う。
けれども、ヒンドゥー教としてそれが成り立っているのであれば中心的な教義のエッセンスがありそうだと思うが
おそらく、筆者はそうとられることは極力避けようとして書いていると思われる。
ただ、世界と同格の人格神のブラフマーの存在はこの宗教の特色のように思える。
世界を創造するのではなくて、世界そのものである神なので。
ただ、それはシヴァ教やヴィシュヌ教という別個の人格神への崇拝に取って代わられるにしても
救済そのものよりも真理への探究が優先されるような苦行の優位の中に現れていそうだ。
また、本書は密教など日本の宗教との関連づけて話す箇所もあって
その点も興味深い。
これ一冊で何が分かるということもないだろうが、
ヒンドゥー教という森に入ろうとするなら見ておくべき地図の一つではないか。
今から三〇年ほど前にインドで放送され、視聴率が九〇%を越えたと言われる、全九四からなるテレビドラマ「マハーバーラタ」でも、クリシュナが神としての姿を現すこの場面は、SFX(今でいうVFXやCG)を使って、光り輝く神が眩く聳え立ち、地上のあらゆるものが逆流する滝のようにしてその口の中へと上昇し呑み込まれていく様子を映し出していた。(p.136)
神はこの世界に現れている、という力強い確信。
『マンゴー通り、ときどきさよなら』著:サンドラ・シスネロス 訳:くぼたのぞみ
移民の集まるアメリカの街。
いわゆる貧困の問題や、その中でもさらに皺寄せが来てしまう女性の問題、
ということに触れつつも重く地面に縛りつけられるよりは
スキップしながら通りを走り抜けるような軽やかさがある。
これはこれである種のステレオタイプの再生産に違いないだろうけれど
このステレオタイプは文字に書き起こされなかった類のものでもあって、
社会をそのままに受け入れつつも、納得したわけではない少女の立ち位置がこのお話の核だろう。
だからあれこれの人の話が出てくるけれども
主人公であるところのエスペランサはレンズのように機能していて、
本人の像ははっきりとしないことも多い。
それが、時折自分を覗き込むと、
貧困や女性問題とはまた別の普遍的な問題にリンクしていく。
こっからどこ行こうってね。
(Where do we go from here.ってジャミロクワイの曲にあった気がするけど、あれ好きだったな)
楽しい気持ちで読める本だと思います。
ネニーとわたしは、ぱっと見ただけでは姉妹には見えない。家族全員が棒付きのアイスキャンディーみたいなぶあつい唇をしているレイチェルとルーシーなら、すぐに姉妹だってわかるのに。でもネニーとわたしは見かけよりずっと似ている。たとえば笑い方。レイチェルとルーシーの家族はみんな、アイスクリーム売りの鈴みたいに、はにかんだようにクスクス笑うけど、わたしたちはお皿の山がガシャんと割れてびっくりしたときみたいに、いきなり大声で笑う。ほかにもあるけど、うまく説明できない。(p30)
ほんとうのことを伝えようとしているのが分かる文章だと思う。これは美点だ。