ヨモジジ(freaks ver.)

本と雑貨と音楽と、街歩きが好きなオッサン。1981年生まれの珈琲難民が好き放題に語る。レビューのためのブログ。

「家守奇譚」著:梨木香歩

和風幻想譚であるけれども、擬古文的なものに囚われずに
素直に書かれていてとても好感が持てた。

亡くなった親友の家に誰も住まなくなるので
家に住んで風を通してほしいというような具合で主人公はその家に住まう。

主人公はその親友の気配とともに暮らす
というのがリアリズムだけれども、このお話では
親友はちょくちょくやって来る。季節の変わり目だとか嵐の夜だとか。
亡くなったはずの親友が来るならば庭木も会釈を交わすし、
犬は河童と遊んでいる。

現世の人らしいものは主人公くらいのものだが
私もいったいどの程度現世の人間だろうか。

掛け軸、それを置く床の間、縁側、
日本家屋の風通しの良さ、境界への接し方、そのような所に
著者が執筆するもののあり方を託したものだとも思える。

ほのかに明るい読後感で、生気をもらえるようなものでもある。
世界に対する楽観があるからでしょうか。
よい小説でした。

いいか、この明るさを、秋というのだ、と共に散歩をしながらゴローに教える。ゴローは目を閉じ鼻面を高く上げ、心なしその気配を味わっているかの如く見えた。私がゴローで一番感心するのは、斯くの如く風雅を解するところである。犬は飼い主に似るというのはまことにもって真実であると感じ入る。(p.99)

犬のゴローは多分ご主人より賢い。かわいいね。
犬を人間に引き上げるというよりは、人間がさほど高くにはいないよ、というガイドにもなっている。

文明の進歩は、瞬時と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。(p.155)

このような気持ちが著者にこの少し時代設定を古く(1891年頃)に設定させたものだろう。
明治に鬼や河童が庭に遊びに来たとは祖母から聞いたことはないけれども。
しかし、その時にいたなら今もいるでしょうね、その辺の河原とかに。

「文字移植」著:多和田葉子

これは翻訳についての物語であるとともに
男性ではない女性についての物語である。

もしくは、距離についてであり、渡ることについてである。

島に行って翻訳の仕事をする主人公は
優雅な身の上と言っても差し支えはない。
ないけれども、とても憂鬱である。

翻訳がうまく進まないし、
嫌な感じのするバナナ園は近づいてくるような気がするし。
マジックリアリズムのような空気を漂わせながらも、
気配だけでそんなことは何も起きない。
それには翻訳では足りないのである。彼らの秘蹟には届かない。

本書のタイトルは初出時には「アルファベットの傷口」ということであり、
「文字移植」と聞くよりいくらか生々しく感じる。
「移植」は翻訳、あちらからこちらへ、ということについてを示唆するが
「傷口」には境界の侵犯、そして個人的なもの、が喚起されるだろう。

傷と、それに伴う痛みは常に個人的なものである。
いかに翻訳してもあなたのものになることはない。バナナ園はプランテーションの歴史を持っていて
直接的に現れないもののここにも傷ついたものがおり、
当初はそこに連帯の意図を持って書いていたと思うけれど、そのような着地にはならなかったことを
僕は彼女が誠実に書いたからこそだと思う。

ところで、本編はとても良いのですが、
解説がまったくフェミニズムの文脈に触れないのでびっくりした。
まぁ、わからなさの方が本書には大事かもしれないけども。

<ああドラゴン退治の伝説ですが。でもどうしてそんな話をわざわざ選んだんですか。まあ普遍的ではありますよね。>と編集者はあの日の電話の声の感じではあまり興味をもっていないようだった。<聖ゲオルグが登場してドラゴンを殺してお姫様を助けるわけでしょう。まあその英雄が実は臆病者だとか実はドラゴンが不在だとか現代風にしてあるんでしょうが。あるいは戦うのはお姫様だとか。そういう話はありそうですね。こう言うのも何ですがフェミニズムの時代ですかららねえ。>わたしはまるで侮辱でも受けたようにあわてて反駁した。<いいえ。そんなこと絶対にありません。本当に聖ゲオルグが出てきてドラゴンと戦うんですよ。お姫様だって現代風に書き換えてなんかありません。わたしそういう風に書き替えるだけで簡単に解決してしまうのは嫌いですから。だからこそわたしは書き替えることでなくて翻訳することを職業に選んだんじゃないですか。>(p.40-41)

長い引用になってしまったが、思いの外核心の部分だと思う。これは現在位置を明確に示している。
そして、このお話はここからの逃走であり、それが闘争である。

余計なお世話に助けられることもあるし、いらない善意もある、
そんなにいちいちかまってられやしない、ってのは女性に多くあるにせよ、人間にはあることだ。
だから、やいやい言われても走れば、置いてけぼりにしていけばいい。
最終的にはそんなシンプルな力強さがある。
なんだか今改めて眺めるとスキゾキッズのラストを思い出すような気がする。

「ルージーン・ディフェンス/密偵」著:ナボコフ 訳:杉本一直、秋草俊一郎

ナボコフコレクションの第二巻となる本書はチェスの名人の話と、
死んでる男が視点人物となる不思議な話の二篇が載っている。

二つはどちらも特別な企みを持って作られており
才気走るナボコフの筆力の高さに唸らされてしまう。

正直、僕には後半の密偵はキツネにつままれたようになって
よくわからなかったけれど(ロシア事情に通じると見えるものがあるだろう)
ルージーン・ディフェンスには驚かされた。

憂鬱なトーンで幼少期から一生を追っていくお話かと思っていたら
作品の構成そのものがチェスの展開をなぞることになっており
チェスの名人の人生がチェスの中に埋め込まれていることが暗示されている。

クライマックスのあり得ないようで、
かつフォトジェニックな終局図には溜息が出ました。

もちろんその点で犠牲にされたものも、ままあるもののの
書き切った時のナボコフのドヤ顔は想像に難くなく、
密偵についても、また別の試みに果敢に飛びかかっていく姿勢が感じられます。
(そして、同じことはあまりやりたくない、という感じを受ける。)

だから途中で生物学の研究とかするんだね。年表見て初めて知ったけど。
好奇心に従って突き進む才能のほとばしりです。ぜひ。

ルージーンの話し方はぎこちなく、粗雑で的を得ない言葉ばかりだったーーだが、ときおりそのなかに、不思議なイントネーションが身を震わせることがあり、そのイントネーションは、彼が口に出すことのできないでいる、繊細な意味の詰まった生き生きとした言葉をほのめかすのだった。無知であるにもかかわらず、語彙が貧しいにもかかわらず、いつか耳にしたことのあるさまざまな音の影を、かすかに聞こえる音の振動を、ルージーンは自らのうちに隠し持っていた。(p.169)

ナボコフは天才肌でほとんど狂人に近い位置にあるような人間の言葉を、
純粋なものを取り出そうとしてフォーカスしていたに違いない。
もしかすると、自分自身の世界との断絶についてであったかもしれないが。

「ギャンブラーが多すぎる」著:ドナルド・E・ウェストレイク 訳:木村二郎

面白かった。
NYのギャングたちが出てくるお話で
被害者もまぁ、出るんだけど、主人公のキャラクターがなんだか
緊張感のないやつでそれがなんだか愉快な感じになってる。

主人公はギャンブルが大好きで、ノミ屋を通して買った馬券が当たったもんで
それの払戻しをしてもらおうと思ったらそのノミ屋が殺されていた。
一体誰が?なんのために?そして、俺の払い戻しは誰がしてくれるんだ?

ということで、主人公はずーっとそればっか言ってます。
ギャングにさらわれても、払戻しだけしてくれればいいんだぜって、すごいなこの人。
でも、間抜けさとタフな感じは紙一重でいい味出てます。

物語の途中からはちょっとばかり色っぽいシーンあり、
銃撃戦、アクションシーンありと
ハリウッド的文法にものっとった
清く正しいエンターテイメントに仕上がってます。

あとは、主人公がタクシー運転手ってこともあって
ちょいちょいNYの番地なんかも出てるんで
通りやら知ってるとさらに楽しめるところもあるんかな。
ちょっとした息抜きにはぴったりの小説でしょう。

賭けてもいいが、おれがこんなにしゃべり上手でなければ、これから話す出来事はまったく起こらなかったはずだ。しゃべり上手だということはいつもおれの問題だが、おれの問題は何か他のことだと言い張る連中もいる。しかし、人生はギャンブルだというのがおれの口癖だし、世の中でしゃべり上手な人間のみんながみんな連邦議会にいるわけじゃない。(p.7)

軽快な書き出しである。それにしてもギャンブルが好きで舌がよく回るというのは、
たいがいロクでもないわな。ろくでなしの話はみなさん興味があるので、ここで大体読みたくなる。
中身はご期待に添えるかと。

人間の身長ぐらいの高さの雪の山が車道の両脇に連なっている。その雪は除雪車によって両脇に集められ、あちらこちらで雪に埋もれた車のボンネットやサイド・ウィンドウが輝いていた。(p.82)

NYって結構緯度が高いんだよね。
そういや、アメリカでは今年の寒波も強烈って言ってたな。
日本はおおむね温帯でその辺は助かるなぁ。それでも寒いけど。

「ひとり暮らし」著:谷川俊太郎

言わずと知れた谷川俊太郎であるが、彼の詩作はとても軽やかで
なんだかとらえどころがないように感じられたりもする。

そんな著者の生活を垣間見せてくれるエッセイである。
詩人としての言葉に対する姿勢の向け方もさることながら
感覚に対してできるだけ明晰かつ分析的であろうとするようなところがあって
それははっきり言葉にしようということではなくて、
輪郭をなぞるようにはしていても名指すことにさほど興味のないような感じがあります。

名前をつけることは出来事をある箱に放り込むようなところがあって
著者はそうした乱雑さとは慎重に距離をとっているように思います。

しかし、そういった態度を自分の人生の後半に差し掛かって
その感慨までも同じ態度で触れられるのは
さすがであるというか、徹底した凄みを感じる点でもあります。

目前の一輪の花の精妙な美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、それに名前をつけるという行為が、どこか自然に対する冒涜とも思えることが私にはあります。(p.125)

という「言い訳」で花の名前を覚えられない、というお話。自分でそういう言い回しをするところは茶目っ気がある。

他者を相手にして仕事をしている自分と、こうしてひとりでよしないことを思う自分と、どっちも私だが、どっちによりリアリティを感じるかと言えば、何もしなくていい今日のような日の自分だ。(p.229)

詩人らしい言い回しかもしれないけれど、ここに書かれているのは晩秋といった趣であって、
このような人生の後半戦であれば上々であろう。心に留めておきたい。

「武器を持たないチョウの戦い方」著:竹内剛

チョウのフィールドワークの報告でなかなか面白かった。
ただ、いきなり軽くネタバレしますけど、
タイトルはミスリードを誘ってて文字通りのことを期待すると騙された感があります。
(まぁ、帯には書いてあるんですが)

何がミスリードか、「戦い方」なんて書いてるけど
そもそも「戦ってない」んじゃないかという研究報告なんです。

オスとオスがくるくるナワバリで飛び回るのは戦いではなく
ただ単に知覚能力の貧弱さからメスであるかどうかの
判別に手間取ってるだけではないかということですね。

戦ってないということで裏切られた感はあるものの
動物を人間と同じ知覚世界で判断しない方がいいんじゃない、というのは
なるほど、という面白さがある。

これは人間同士でも同じですね。
似たような振る舞いをしていても内実の意味合いが全く異なるということはある。

若手の研究者として苦労をしたことも率直に書いていて
その辺の書き振りも楽しみがある。(ご本人は大変だろうけども)

写真や図も多く分かりやすさに配慮があり
具体的なフィールドワークの方法にも触れられていて
こういう分野に興味のある高校生あたりが読むとちょうど良さそうである。

いつもの山道を歩いていると突然犬に吠えたてられた。山道の先を見ると三頭の犬がこちらを睨んでいる。遊びに来たのであれば、無用なリスクは避けてひとまず撤退するところである。しかし、二神山は優れた調査地である。ここで怖がって引き返すと研究にならない。(中略)こういうトラブルも、フィールドワークの一部ではある。しかし、誰か知らないが、犬は捨てないでほしい。(p.142)

犬は捨てちゃ駄目だね。

チョウが見張り場所にするのは、林の中の小さな空間や山頂など、チョウのサイズからすれば開けた場所であることが多いことも理解できる。そういう場所でもないと、近くに現れた異性を見つけられないのだ。(中略)人間が見て賢いと感じるような、高い認知能力や学習能力を持つには、脳神経系を発達させなければならない。私見だが、それは動物に負担をかけているではないかと思う。それを維持するのがよいのか、脳も体も軽くした方が実践向きなのかは、人間の印象で判断できるようなことではない。(p.221)

人間も繁殖に成功しているとはいえ、同程度以上に広く世界に行き渡っている生物種はいくらもある。それを軽んじることはできない。

「百年の散歩」著:多和田葉子

出羽守なんて言葉が蔓延ったのはいつ頃からだろうか。
〜ではこうだ、のように言うから「ではのかみ」とのことで
ベルリンに住む日本人なんてその典型のように見える。

ただこの小説では何かを引き比べるというような地平に立ち並ぶことはない。

差異について言及されることはあっても
土地の歴史が濃く漂って安易に並べることが拒絶されてしまう。

「百年の」と言うのは歴史のことだが
まだ、さわると熱を持っているような傷のことでもある。
街角の端からそうした痛みが急に立ち現れてくる。

あるいは「百年」と言えば「孤独」と続くだろう。
著者らしい言葉遊びを携えて
主人公はベルリンの通りをふらふらと彷徨い続ける。
会いたい人、会うべき人には会うことはない。

ゴドーでも待っているかのようで、
主人公はずっと歩き続けていてそもそも待っていやしない。
ただ何かの訪れを待っている。
歴史の天使でも舞い降りるのを待っているかのようだ。

これは楽天主義の一種なんだろう。
読後感は思いのほか暖かい。

わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。カント通りにある店だった。(p.8)

通りには人の名前が付けられている。いや、その前に奇異茶店とは何か。
言語を切り替えながら過ごしている異邦人にはこのような誤動作は致し方ないのだ、という素振りで
色んなところでこんな言葉遊びが繰り返される。

それは読者を彷徨に誘う呼び水であり、その人からも遠く離れていく。

苦難をくぐり抜けなければならなくなっても、そこから得るものがあればいいとわたしなどは考えてしまう。ところが、この政治家の人生は意味のない残忍な偶然の連続だった。自分の願いや意志が反映されたことなど一度もない。(p.134)

これは映画のシーンでコメディとして描かれているらしい。
文化の衝突として受け取ることもできるし、ヨブ記を想起させもするような口振りでもあし
あるいは、歴史の無残さについてなのか、あるいは、あるいは、
という意味の焦点になるようなシーンがするすると差し挟まれていく。

待つことと待たないことの区別がなくなってしまうくらい、時間の流れを遅くしてみてはどうですか。誰に会いに行くつもりだったのか忘れてしまうくらいゆっくり歩いてみてはどうですか。(p.273)

これは一つの答えなんだろうが、これも辿り着きたくはなかったであろうから
会話の中でも結局そらされていく。
まだまだ通りもたくさんある。ゆるゆると散歩は続いていく。